独立後も接収続く 軍基地になった大阪市大
大学が軍事施設に変わってしまった過去がある。終戦直後、大阪市立大の杉本キャンパスは米軍を中心とする占領軍に接収され「キャンプ・サカイ」と呼ばれていた。全面返還されたのは日本が独立した3年後の1955年。接収期間が異例の長さになった背景には、大阪市大が戦時中に旧日本軍から受けた処遇があった。
占領軍による接収が始まったのは旧大阪商科大時代の45年10月。キャンパス全体が占領軍の駐屯地として使用されたため、大学は市内各地の、現在の小学校に当たる国民学校の校舎を間借りする対応をとった。戦災で窓ガラスが無くなった劣悪な環境のもとでも、戦地から復員した学生たち が勉学に励んだという。
日本が主権を回復した1952年、キャンパスの一部区域が返還され、大学と基地の「同居状態」になった。学生と米兵の間にトラブルが起こることもあり、女子学生がかばんに護身用のナイフを忍ばせていたとのエピソードが残る。当時の学生のアルバムには、演習場となったグラウンドの写真のそばに「私たちは指をくわえて、この有様を見なければならないとは」と悔しさがつづられている。
次第に全面返還を要求する声は高まり、全学的な運動へと発展。国会に請願書を提出するなど中央政府への働き掛けも行われ、55年に接収は全面解除された。
長期にわたる接収の口実として占領軍側が持ち出したのは、旧日本軍 による接収の事実だった。キャンパスは44年6月に旧日本軍によって接収され、新兵教育などの拠点として45年10月まで用いられた経緯がある。占領軍は、戦時中に軍用施設として使用されたものは一般の基地同様に扱うと決定。キャンパスは他の施設とは区別されていた。
日米双方による接収の過去は、現代が抱える問題にも直結している。2010年には2号館の工事中に、米兵が使っていたとみられる実弾や水筒が発見された。その他にも建て替えや改装の際に、壁に書かれた英文の注意書きなど、接収時代の面影が浮かび上がることがあったという。キャンプ・サカイに駐留していた米海兵隊が沖縄に移駐することで、ようやく返還が実現した。しかしそれは沖縄の海兵隊増大につながった。
一連の過程を調査している大学史資料室研究員の田中ひとみさんは「戦中の日本軍による接収が戦後のあり方を強く規定してしまっている。大阪市大だけでなく、日本の高等教育機関にとっても記憶しておくべき事柄だろう」と話す。
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