「JR福知山線脱線事故最後の生存者」林浩輝さん、卒業へ
平成17年4月25日。林さんはJR伊丹駅から2限目の授業に向かうため、1両目に乗車した。車窓から景色を眺めていると体が宙に浮いて「これは脱線するな」と思ったら、あとは一瞬だった。気がつけば暗闇の中。自分の上に何人もの人が重なっている。自力では出られる状態ではなかった。
大声を出して助けを呼んだが、誰も助けてくれる気配はない。車両が突っ込んだマンションの下は電波が弱く、電話もメールもろくに返せなかった。やっと電話が父親とつながって、「一番前にいるけど、誰も来ない。このままやったら無理かも知れへん」と会話した。約10人が助けを求める声をあげていたが、時間が経つにつれてその声も消えていく。間近で消えていく命を感じながら林さんも「自分はここで終わりなんだ」と思った。
事故発生から22時間後、林さんはJR福知山線脱線事故の最後の生存者として救出される。周りは遺体だらけ。レスキュー隊員から「生きているのは君だけやから」の一言。救出された安堵感から気を失った。
●絶望
病室のベッドの上で目が覚めた。救出時に危険な状態だった林さんは医師の判断で2週間眠らされていた。一命を取り留めた林さんだったが、これからの自分の人生に絶望していたという。両足は切断され、車椅子での生活を余儀なくされた。手も動かせない。
「何故、自分が。こんなことになるくらいなら生きていても意味が無い」。事故に遭うまで充実した学生生活を送っていた林さんは、いきなり突き付けられた現実に絶望した。「同志社にこなければ、他の大学に通っていれば。あの路線に乗らなければ、こんなことにならなかったのに」。大学も辞めようと思った。こんな状態の自分にこれから何ができるのか。寝たきりの入院生活で自暴自棄になっていたという。事故当初、家族の励ましの言葉も胸には響かなかった。
JR西日本を恨むことより、ただただ自分の将来に絶望していた。
●多くの支えとリハビリ
自分の将来に見切りをつけてしまった林さんだが、時間が経つにつれて少しずつだが出来ることが増えていった。起き上がることができるようになり、車椅子にも乗れるようになった。右手の神経も回復した。「落ち込む所まで落ち込んだから、後は上を向くしかなかった」と林さんは振り返る。そして何より、大学の友人達の励ましが大きかったという。
「あいつらと卒業したい、意地でも4年で卒業したい」。
入院から2ヵ月後の6月頃に大学職員が病室を訪れ、休学と在学のどちらかを選択するように言われた際、林さんは迷うことなく在学を選択。励まし続けてくれる大切な仲間と一緒に卒業したい、その一心で大学から課された課題とレポートを病室でこなし、リハビリに励む日々が続いた。
大学に戻ることに不安が無かったわけではない。バリアフリー化が進んでいても、本当にキャンパスで生活していけるのか自信は無かったという。それでも、仲間と共に4年で卒業するために大学への復帰を決意した。11カ月間に渡る入院生活とリハビリを経た翌年4月。林さんは、大学へ戻った。
後編に続く。
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