死者107名(うち学生24名)の大事故となったJR福知山線脱線事故最後の生存者として救出された同志社・4年の林浩輝さん(事故当時・2年)が3月21日、卒業を果たした。事故発生から卒業までの苦悩に満ちた林さんの3年間を振り返る。【3月23日 UNN】
●事故発生から救出まで
平成17年4月25日。林さんはJR伊丹駅から2限目の授業に向かうため、1両目に乗車した。車窓から景色を眺めていると体が宙に浮いて「これは脱線するな」と思ったら、あとは一瞬だった。気がつけば暗闇の中。自分の上に何人もの人が重なっている。自力では出られる状態ではなかった。
大声を出して助けを呼んだが、誰も助けてくれる気配はない。車両が突っ込んだマンションの下は電波が弱く、電話もメールもろくに返せなかった。やっと電話が父親とつながって、「一番前にいるけど、誰も来ない。このままやったら無理かも知れへん」と会話した。約10人が助けを求める声をあげていたが、時間が経つにつれてその声も消えていく。間近で消えていく命を感じながら林さんも「自分はここで終わりなんだ」と思った。
事故発生から22時間後、林さんはJR福知山線脱線事故の最後の生存者として救出される。周りは遺体だらけ。レスキュー隊員から「生きているのは君だけやから」の一言。救出された安堵感から気を失った。
●絶望
病室のベッドの上で目が覚めた。救出時に危険な状態だった林さんは医師の判断で2週間眠らされていた。一命を取り留めた林さんだったが、これからの自分の人生に絶望していたという。両足は切断され、車椅子での生活を余儀なくされた。手も動かせない。
「何故、自分が。こんなことになるくらいなら生きていても意味が無い」。事故に遭うまで充実した学生生活を送っていた林さんは、いきなり突き付けられた現実に絶望した。「同志社にこなければ、他の大学に通っていれば。あの路線に乗らなければ、こんなことにならなかったのに」。大学も辞めようと思った。こんな状態の自分にこれから何ができるのか。寝たきりの入院生活で自暴自棄になっていたという。事故当初、家族の励ましの言葉も胸には響かなかった。
JR西日本を恨むことより、ただただ自分の将来に絶望していた。
●多くの支えとリハビリ
自分の将来に見切りをつけてしまった林さんだが、時間が経つにつれて少しずつだが出来ることが増えていった。起き上がることができるようになり、車椅子にも乗れるようになった。右手の神経も回復した。「落ち込む所まで落ち込んだから、後は上を向くしかなかった」と林さんは振り返る。そして何より、大学の友人達の励ましが大きかったという。
「あいつらと卒業したい、意地でも4年で卒業したい」。
入院から2ヵ月後の6月頃に大学職員が病室を訪れ、休学と在学のどちらかを選択するように言われた際、林さんは迷うことなく在学を選択。励まし続けてくれる大切な仲間と一緒に卒業したい、その一心で大学から課された課題とレポートを病室でこなし、リハビリに励む日々が続いた。
大学に戻ることに不安が無かったわけではない。バリアフリー化が進んでいても、本当にキャンパスで生活していけるのか自信は無かったという。それでも、仲間と共に4年で卒業するために大学への復帰を決意した。11カ月間に渡る入院生活とリハビリを経た翌年4月。林さんは、大学へ戻った。
後編に続く。
死者107名(うち学生24名)の大事故となったJR福知山線脱線事故最後の生存者として救出された同志社・4年の林浩輝さん(事故当時・2年)が3月21日、卒業を果たした。事故発生から卒業までの苦悩に満ちた林さんの3年間を振り返る。【3月23日 UNN】
●事故で失ったもの、手に入れたもの
実家からの通学は厳しいため、大学近辺に下宿した林さん。大学から徒歩3分程度の場所だが、車椅子での通学は困難だ。下宿先から大学までの通学路である今出川通の歩道は狭く、健常者が何とも思わないような歩道の傾斜が林さんの自由を奪ってしまう。友人達の協力を得ながらの登下校。下宿から50メートル程のコンビニに行くのにも一苦労だ。加えて京田辺校地と違って重要文化財指定を受けている建造物が多い今出川校地は十分なバリアフリー化は果たされていなかった。事故によって、奪われた自由は多い。
林さんは毎晩、就寝前に睡眠薬を服用する。両足を切断している林さんだが、爪先が痛んで眠れないという。「幻肢痛」と呼ばれる症状で、怪我や病気などで体の一部を切断した後、ないはずの肉体が痛む症状だ。「もう慣れたけど」と笑うが、両足切断というはっきりとした形と、未だに続く痛みが林さんから事故を忘れさせることはない。
反対に、事故から学んだこともある。「九死に一生の経験をしたことで、自分の生について真剣に向き合うようになった」と林さん。納得のいく選択をして、納得のいく人生を送りたい。
復学当初、林さんは大学院進学を考えていた。身体的に不自由になってしまったので知識で勝負しようと考えた。しかし、友人の多くは就職希望。自然と就職活動の話を耳にするようになり、林さんも就職に対して前向きになっていった。もちろん不安がなかったわけではない。社会に出ても助けてくれる人がいる保証はない。「大学のようにぬるい場所ではないし。そもそも自分をまともに扱ってくれるのか」。最初は障がい者採用実績がある会社を中心に選んで活動を始めた。
しかし、就職活動をしていく中で障がい者採用実績のない会社を受けようと思った。「自分を一般の新卒者として公平に扱って欲しかったから、前例のない会社を受けようと思った」と話す。「自分がどこまでやれるのか。やれるんだ」ということを証明したかったという。見事、障がい者採用の前例がない会社から内定を取った。
自分の人生を生きる。支えてくれる人達のありがたさと共に、林さんが事故から学んだ教訓の一つだ。「いつかは脱線事故抜きで語ってもらえる人間になりたい」。
●事故を風化させないために
極力、林さんは新聞を始めとするメディアに事故当時の様子や現在の心境を語るようにしている。決して望んだ形ではないので抵抗はあるという。「それでも、メディアに出なければ風化に繋がってしまう。自分が答えれば効果が大きいから」。その他、事故から学んだ「納得のいく人生を生きる大切さ」を中学生に向けて講演、医師の研修会で救急患者の想いや心情を伝えるなど精力的に活動中だ。講演会の後にもらう感想も励みになる。
一人でも多くの人に事故のことを知って欲しい。どれだけ悲惨な事故だったのかを忘れて欲しくない。JR西日本に対しても「同じことを二度と起こさないように努力を続けて欲しい。今は事故発生から3年しか経ってないが、長期的に今の安全管理を行って欲しい」と話す。
ようやく手にした卒業証書。3年間支え続けてくれた仲間と一緒に卒業できる喜びをかみ締める。しかし事故から解放されたわけではない。自らの体に刻まれた傷跡、閉じ込められた車両で命が一つずつ消えていく時に感じた恐怖と悲しみ。社会人になってもできる限り事故のことを伝えていくつもりだ。事故からまもなく3年。具体的に言葉に表すことはできないが風化を感じているという。「同志社では3名の方がなくなった。このことを、人ごとだと思わないで欲しい」と学生へメッセージを送った。