アラビア語習得のため2018年9月から19年6月まで、中東ヨルダンの国立総合大学ヨルダン大に留学した。最終回の今回は、パレスチナ難民3世の女子学生タスニームさん(21)と、かつてパレスチナ解放機構(PLO)の青年部で働いていた難民2世の父マフフーズさん(61)を取り上げる。【アンマン、西崎啓太朗、写真も】

アンマン市内のウィフダット難民キャンプ。現在も多くのパレスチナ難民が生活している。衛生環境が悪く、通りにごみが散乱していた。

「ヨルダンは祖国みたい」

「写真を撮って」と近寄ってきた少年。ウィフダット難民キャンプ内のスーク(市場)は活気があった。

 タスニームさんはヨルダンの首都アンマンの北東約25㌔㍍に位置するザルカで生まれた。現在はヨルダン大で朝鮮語と日本語を学ぶ。

 両親はパレスチナ出身。タスニームさんにとって、パレスチナ問題は子どもの頃から身近な話題だった。「イスラエルは、パレスチナ人の土地を奪って自分たちの土地だと主張している」とイスラエルを非難する。

 一方で「戦争を経験していない若者たちは、問題についてあまり関心を持っていない。ヨルダン川西岸地区やガザ地区に住むパレスチナ人と、外国で生活するパレスチナ人の間でも考え方が違う」と指摘。自身についても「父と母はパレスチナに帰りたがっているが、私はそんなにこだわっていない。生まれ育ったヨルダンは祖国みたいな場所だ」と話した。

 また「政治に詳しくない」と断った上で「問題を解決するためには、戦争でパレスチナからイスラエルの人々を追い出すべきだ。他人の土地を奪って使い続ける人々のことを理解できない」と語った。ただ「イスラエルの文化を知ったり、イスラエルの人々と議論したりする場を設けることは大切だ」と考えている。

「パレスチナに帰りたい」

 タスニームさんの父、マフフーズさんの家族はかつて、イスラエルのテルアビブから約20㌔㍍南東に位置するラムラ近郊の村に住んでいた。家族は1948年の第1次中東戦争前に身の危険を感じ、パレスチナのジェリコに移った。ラムラや隣接するロードで多くのパレスチナ人が虐殺されたニュースを知り家族は恐怖に震えていたという。

 マフフーズさんは57年にジェリコで生まれ、67年の第3次中東戦争前に、ザルカに逃れた。ヨルダンには当時、パレスチナ人は夜中に外出できない決まりがあった。14歳の時、決まりを破って夜中に親戚の家に行った際、ヨルダン兵に銃口を向けられた。撃たれなかったものの死を覚悟したという。「自由に外出できず、食料もなく困難な時代だった」と振り返る。

 また19歳から数年間、PLOの青年部で働いた。青年部内では、パレスチナを支援する方法や社会問題について意見を交わしていた。

 その後、エンジニアになることを目指しPLOの主流派ファタハの奨学金をもらってイタリアで勉強することに。シリアやレバノンを経由して、イタリアへ向かった。シリアの首都ダマスカスでは、現在、パレスチナ自治政府の議長を務めるアッバス氏と同じ建物で生活していたという。「実際に言葉を交わすことはなかったが、よく彼を見掛けた」と話す。

 イタリアでの留学生活は17年に及んだ。大学でイタリア語を学び、工学や薬学の講義を受けた。一方で、イタリアの警察に武器を持っているのではないかと疑われ、家宅捜索をされるなど苦労もあった。結局イタリアの大学を卒業できないまま、ヨルダンに戻って結婚し、ザルカやアンマンのイタリア料理店で働いた。

 「人生でパレスチナを意識しなかったときは一度もない。いつかパレスチナに帰りたい」。マフフーズさんは故郷パレスチナへの関心を持ち続けている。「問題を解決するには分断されたパレスチナを統一して、信教の差別がないパレスチナ人主導の民主主義国家をつくる必要がある」と語った。(おわり)