アラビア語習得のため2018年9月から、中東ヨルダンの国立総合大学ヨルダン大に留学している。今回取り上げるのは、ヨルダン南部の古代都市遺跡「ペトラ遺跡」。遊牧民だったナバテア人が約2千年前に築いた王国の都とされるペトラの歴史を紹介する。【ペトラ、西崎啓太朗、写真も】

巨大な墓「エル・ハズネ」。神々が彫られている
岩山に造られた墓が並ぶ通り。ラクダやロバが行き交う

巨大なファサード

 ヨルダンの首都アンマンから約240キロメートル南にあるペトラ遺跡は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されている。

 約1・2キロメートル続く岩の裂け目「シーク」を抜けると、巨大な墓「エル・ハズネ」が現れた。エル・ハズネは紀元前1世紀末から紀元後1世紀にかけて造られた。岩山を上から下に向かって削って建設されたファサード(建物正面)には、エジプト神話の女神「イシス」やギリシャ神話の勝利の女神「ニケ」などが彫られている。ナバテア人が好んだ植物模様もあり、さまざまな文化の影響を受けていたことが分かる。

 観光客を乗せたラクダやロバが行き交う通りを歩き、かつてのペトラの中心地に着いた。2世紀にローマ帝国によって建てられたとされる凱旋(がいせん)門の跡が目立つ。通りに沿って大神殿や市場などが集まっていたというが、現在は土台部分しか残っていない。損傷が激しい建物が多く、当時の繁栄ぶりを想像するのは難しかった。

 約800段の階段を上り、遺跡の最奥地へ。巨大なファサードを持つ「エド・ディル」が待ち構えていた。エド・ディルは教会として使われ、修道僧が住んだため、「修道院」とも呼ばれている建物だ。多くの観光客が写真を撮って、楽しんでいた。

香料交易で繁栄

 ペトラ周辺には、約1万年前から人類が定住していた。遊牧生活をしていたナバテア人が定住し始めたのは、紀元前6世紀。彼らは水路やダムなど高度な治水技術を持ち、アラビア半島南部から地中海世界まで香料を運ぶ交易で活躍した。紀元前2世紀に王国を建て、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて繁栄した。

 ナバテア人は独特の文化を持っていた。宗教はエジプトやシリアなどさまざまな起源の神々を崇拝する多神教だった。中でもナバテアの最高神「ドゥシャラー」と女神「ウッザー」は重要な神だったと考えられている。他にも学問や交易の神を信仰していた。

 また交易を行う中でギリシャ文化の影響を受け、ワインを飲むようになった。ペトラ周辺の村には、石製のワイン圧搾機を使って、ワインを大量生産していた記録が残っている。

 文字は、古代中近東で広く使われていたアラム文字を基に作られたナバテア文字を使っていた。ナバテア文字は、筆記するときに文字同士がつながったり、語中の位置によって文字の形が変わったりするのが特徴だ。アラビア文字の原型になったとされている。

 ペトラは106年に、ローマ帝国の属州になる。ローマ式の円形劇場や、列柱通りなどが次々と建てられた。その後ローマ帝国がキリスト教を公認すると、修道院や教会が建設された。7世紀からはイスラム勢力に支配されていた。

 11世紀にキリスト教の聖地があるエルサレムに侵攻した十字軍が、ペトラを占領。城塞を築き、イスラム勢力に対抗した。だがエジプトでアイユーブ朝を創建したサラディンが十字軍を追い払うと、ペトラの重要性は低下。その後、歴史の表舞台から姿を消した。

 ペトラが「再発見」されたのは1812年。スイス人探検家がシリアからカイロに向かう途中、立ち寄った。ペトラは再び注目され、世界中から冒険家や旅行者が訪れるようになった。